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◯山口 修君 |
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次に、南洲神社の朝鮮石についてでございます。
お手元に資料としてお配りをいたしましたが、南洲神社の社務所の横に建てられております朝鮮石について御説明をしたいと思います。この石柱には「朝鮮石 明治四十三年八月二十九日」と刻まれております。この明治四十三年八月二十九日というのはどのような日かと申しますと、日韓併合条約が裁可、公布された日でございます。この石柱の意味するところを思い推測したわけですけれども、一つには、明治十年九月二十四日に城山で自刃した西郷隆盛の、この明治四十三年というのはある面では三十三年忌といいますか、これに由来するのでないかと考えました。二つには、「朝鮮石 明治四十三年八月二十九日」は、西郷隆盛のいったと言われる征韓論が成就したとの報告なのかと、そういうことを考えたところでございます。
事実といいますか、真実を追求するために、もう新聞しかないなということで、県立図書館に出かけまして、明治四十三年ごろの鹿児島新聞をずっと閲覧をしたところでございます。幸いに、明治四十四年二月二十二日、水曜日の鹿児島新聞に「英雄墓前の珍石」という見出しで写真つきの記事を発見したところでございます。この写真の上の方、これは西郷さんのお墓の階段の真横、正面真横に当初は建てられていたわけでございます。いつの時点にか今の社務所の横に移転をされているようですけれども、いつ移ったかはわかっておりません。
この新聞記事によりますと、ここに書いてありますとおり、この石柱は鹿児島市出身の上村彦之丞海軍大将が、明治四十三年秋に艦隊を率いて韓国の鎮海湾遊弋に出向いた折、鎮海防備隊の宮岡直紀海軍少将から譲り受けたというふうに、ここに書かれてあります。この石柱は同防備隊の軍港施設地の山腹より出土したということで書いてありますけれども、五百年ほど前の高麗王朝のものではないかと。ですから今では六百年ほど前ということになります。この石柱の文化財的な位置づけといいますか、どういうものか確認がしたくて、さきに全羅北道、大韓民国との交流会議に出席されました同僚議員の堀之内芳平議員を通じまして、大韓民国日本大使館に調査依頼をしたところであります。大韓民国にとりましては、日韓併合は屈辱の条約と言われ、当時の総理大臣李完用─イ・ワニョン─は国賊と言われているやに聞きます。この石柱はいわば当時の戦利品というふうに言えますので、一定の手順のもとで大韓民国の今の鎮海市にお返しするのがよろしいのではないかというふうに、自分自身、今考えております。
南洲神社の宮司さんにもお話をしましたけれども、九十六年も前のことで、この石柱が神社に寄進された背景はわからないということでございます。西郷隆盛の遣韓論を唱える鶴田孝雄グループは、この石柱は南洲神社境内にはない方が望ましいという考えであります。実はグループと言いましても私と鶴田会長と二人のグループでございますけれども、ない方が望ましいというふうに思っております。日本と大韓民国との長い歴史の中で、この石柱にある日韓併合の明治四十三年八月二十九日のみに焦点をあてることではなく、平和な時代、江戸時代の朝鮮使節団、あるいは明治維新から日清、日露戦争、第二次世界大戦へのこの列強と言いますか、帝国主義時代の歴史を追って学習し、その背景を学ぶことが今の私たち、この熟年、団塊の世代に一番求められているんではないかなと思っております。
そこで、知事にお伺いしますが、降ってわいたような質問で恐縮でございますけれども、南洲神社に建立されております、この九十六年間静かに眠るように建ち続けてきたこの「朝鮮石 明治四十三年八月二十九日」と刻まれた石柱に対して、どのような思いがわいてこられるのか、抱かれるのか、お尋ねをいたします。わからないときはわからないで結構でございます。よろしくお願いいたします。 |
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◯観光交流局長(庭田清和君) |
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南洲神社の朝鮮石についてのお尋ねがございました。
朝鮮石と刻書された石柱につきましては、南洲神社の敷地内にございまして、同神社において管理されているものと考えております。今回、関係者の方々にその経緯等について照会をいたしましたところ、いずれの方々も詳細については不明とのことでございました。 |
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◯山口 修君 |
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南洲神社の件ですけれども、朝鮮石ですが、ある面では負の遺産というふうに思ったりもします。そこは鶴田孝雄会長と粘り強くまた運動をしていこうかなと思っております。鎮海市というのは日本が海軍の基地をつくったわけですけれども、その後、韓国海軍の基地になっておりまして、日本の広島の呉市と韓国の鎮海市は姉妹都市を結んでおります。そういうルートも使いながら、この珍石、石柱が果たしてどういう文化的な価値があるのか。堀之内議員の御努力が水泡に帰さないように、一生懸命私自身も調査を続けてまいりたいと思います。
それから、私は政治信条としましては、「歩く、見る、聞く」をモットーにしております。もうどこでもかしこでも出てまいりますので、実は一つは手前みそですけれども、南洲神社の水銀灯献灯が文化財建造物に登録されましたが、実はあれも集成館事業として大正二年につくられた、刻印のあるのはあれが一つでございます。集成館事業は大正四年に閉館、閉鎖になっておりますが、この朝鮮石調べと並行して、これもひょっとしたら値がするんじゃないかなということで、県の文化財課に上申をし、調べてもらったらあのような結果になったわけでございます。そういうことで「歩く、見る、聞く」、まだネタはたくさんありますので、次の機会にまた新しい情報を提供したいと思います。
それから、最後になりますが、鹿児島工業高等学校野球部の甲子園での活躍の話が各代表質問等々ありました。実は議員の中でただ一人、鹿児島県立工業高等学校電気科卒業生が私、山口修でございます。学校ができて九十八年になりますけれども、いかんせん、この甲子園の遠さにはもう泣いても泣っきらなかったわけでございます。商業高校、玉龍、実業、樟南、鹿児島市内の伝統校といいますか、昔からある学校の中でただ一校、行ってなかったです。一中、二中、鶴丸、甲南も行ったわけですから。しかし工業だけはなにかしら行かれなかった。ことしはある面では運よくといいますか、行ったわけですけれども、私は甲子園の活躍もですけれども、県大会の準々決勝の宮之城高校の最後の、校名がなくなるということで、十五名の三年生の部員さんがまさに背水の陣でチャレンジをし、五対四でサヨナラ負けをいたしましたけれども、宮之城高校のあの頑張りがやっぱり鹿児島工業に一つの力を与えたというふうに思います。それから準決勝の川内高校の二年生バッテリー、これは来年が期待されますけれども、これも先攻して逃げ切るかと思いましたが、逆転で五対四で工業が勝ちました。決勝戦の鹿屋高校の戦いですが、あの二回に雨が降らなかったらという話がやっぱり出てまいります。そして七点が入って、これは楽勝だなと思っていましたけれども、鹿屋高校の思い切ったあのバッティングは、鋭い打球がどんどんどんどん飛んで、もう九回まできたら、もうどうしようもないぐらい思ったんですね、これはひょっとしたらやられちゃうんじゃないかなと思いましたけれども、幸運にも勝ちを得て甲子園に行くようになりました。
実は、高知商業戦と福知山成美の試合に行ったわけですけれども、ゼロ泊三日、強行軍で足はむくむし、大変でございましたが、高知商業のあの体格のいい皆さんの打球を見たときに、「いや、これはやっぱり厳しいなち」、先攻されましたので、「うんにゃ、こらやっぱい強ど」ということになったんですが、そこは伸び伸び野球で、監督さんの指導のもと逆転勝ちをし、そして香川西に勝って、福知山成美がきたときには、あの駒谷ピッチャーのサイドスローの鋭いシンカーというんですかね、なんだかわかりません、スライダーですか、これも厳しいなと思いましたが、向こうの応援団が言いました。「鹿児島は樟南さんとか実業さんをたたいて上がってきているから強いんでしょうね」、そういう評価をされていましたですね。そういうことで、勝ちを得てきたわけですけれども、本当に御苦労さんと申し上げたいと思います。
それから、もう一つは学校の先生方の御努力もあると思います。前任の校長先生は工業高校にない、ある面では文化という部分を導入して、生徒の気構えを大分指導されたようでございます。まいた種が新任の強運の瀬田さんにいって、選手で二度、監督で一度、校長で一度で、四度も甲子園に行かれる方はいませんが、前任の山本校長の御努力もあって、そして中迫監督の御指導もあって、こういう結果になったんじゃないかなと思います。群雄割拠の鹿児島県高校野球になったと思います。川内高校、鹿屋高校、あるいは加治木、各ブロック、そうそうたる監督さんが頑張っておりますので、来年の選抜大会に向けての戦い、あるいは夏の甲子園に向けての戦いは、これはまた大いに希望のあるおもしろい戦いになるんじゃないかなと思います。
そういう野球といいますか、に負けないように県勢の発展に私も頑張ってまいりたいと思いますので、よろしくお願いします。どうもありがとうございました。
以上、質問を終わります。 |
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