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◯山口 修君 |
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特定離島の振興についてでございます。
まず総論として、知事にお尋ねいたします。
私はこの夏、十島村に研修といいますか、バカンスといいますか、出かけてまいりました。十島村に向かうには、夜中の午後二十三時五十分、鹿児島港を出港する十島丸に乗船していきます。明けの日の朝早く五時五十分には最初の島、口之島に着くわけでございます。それから島伝いに南下して、最後の宝島に入港するのは、二日目の十二時三十五分という航路日程になっております。
十島村は、御案内のように七つの島から成っており、平成十六年九月の人口は六百九十六名、三百八十戸が全村民でございます。ヤギ汁とカツオのおいしい平島には八十一人、三十八戸の皆さんが頑張っておられました。各島々は平坦地が少なく、台風常襲地帯で、農業にしろ、漁業にしろ、生活基盤を築くには私たちが思いもよらぬ厳しさを抱えています。
島の基幹産業は畜産、中でも子牛の生産が大きなウェイトを占めています。最近では、サンセベリア─トラノオ─の生産も盛んになってまいりましたけれども、生活基盤はやはり畜産、子牛の生産拡大にかかっているというふうに思いました。これまでも離島振興法による支援、県の単独事業として支援を続けています特定離島ふるさとおこし推進事業によって、各種の事業が展開されてまいりました。
しかしながら、現在、定住促進ということで、Iターン、Uターンの事業を続けておりますけれども、これらの皆さんの子供さんが高校生になるときに、大きな経済的ピンチが訪れます。島には高校がありませんので、全員が島外の高校進学となります。本土での生活は、下宿か寮生活を送ることになります。月々の仕送りはおおむね十万円近い送金になるというふうに聞きました。この生活費を子牛の生産を中心にして賄うとすれば、母牛が二十五頭から三十頭必要になる計算でございます。多頭飼育というふうになりますと、牛の飼料代も大きくなります。耕地が少ない島の中で田畑を持たないIターンの方、あるいはUターンの定住者は、ここでも経営的なピンチに見舞われます。特定離島で島民の皆さんが自立できる生活基盤、農業基盤、漁業基盤を築くには、まだまだ国や県の支援が欠かせないところでございます。
外海離島のトカラ列島近海周辺には、北朝鮮の工作船の接近もありましたし、最近では中国の原子力潜水艦の領海侵犯もございました。特定離島の皆さんは、「国境の島を守る」という大変重要な役割を果たしているのでございます。内外とも厳しい財政、そして経済状況にありますけれども、昭和四十五年には、島民全員が移住して無人島になった臥蛇島の例がございます。私たちは第二、第三の臥蛇島をつくってはならないというふうに思うわけでございます。
既に知事は、市町村長との意見交換会の席で、当該首長から出されました特定離島への支援要請に対しまして、「県財政は厳しいが、共生・協働の地域社会の形成の立場から、ふるさとおこし事業を一気に削減するつもりはない」と答えられております。改めまして、これからの特定離島ふるさとおこし推進事業に取り組む知事の基本的な考え方について、その所信をお伺いいたします。
あわせまして、このような特定離島の現状をしかと把握していただくために、早い機会に十島村、三島村地区の皆さんとの「知事と語ろ会」を開催していただくことを望むものでございます。実は、硫黄島にも行ってまいりました。九月四日でございます。台風の災害復旧の中で、三島村の職員の皆さんの後についていったわけですが、見知らない男が一人、防災服を着ていったもんですから、島の奥様方が職員さんに、「あの人は伊藤知事さんですか」というふうに聞かれたそうでございます。私は「いや、県議会議員の山口でございます」ということで頭を下げましたけれども、それほど知事の来島を三島村も十島村も、あるいはまた多くの地域の皆さんがお待ちしていることをあわせて御報告しておきます。
それから、畜産振興についてでございます。
県は、十島村、三島村の畜産振興について、村の総合振興行計画と呼応しながら都度、的確に支援していることにつきましては十分認識しておりますし、高く評価するものでございます。しかし、畜産農家の高齢化もありまして、飼養戸数、飼養頭数は若干減少傾向にあります。県は、これまで厳しい財政事情にもかかわらず、家畜貸し付け事業、施設整備事業、放牧衛生対策事業など、特定離島に配慮した補助事業を推進してきたところであります。
去る十二月二日に、鹿児島中央家畜市場で開催されました子牛競り市を見学しましたけれども、全体で四百二十頭の出荷がございました。そのうち十島村、三島村の子牛は五十九頭、全体の一四%の出荷になっていました。内訳は、登録牛三十九頭、未登録牛二十頭でございます。母牛の登録化が進み、島の子牛も徐々に本土並みの競り値になってきているということでございました。
そこで農政部長にお伺いいたします。これまで取り組んでこられました十島村、三島村への畜産振興の支援事業の総括と、県と村の今後の支援事業のあり方、そして今後の課題についてどのようにお考えか、御見解をお示しください。
続きまして、交通安全教室の開催についてでございます。
三島村には、小・中学校四校、児童生徒数五十八名、十島村には、小・中学校七校、児童生徒数七十二名の児童生徒の皆さんが学んでいます。平島や宝島でお会いした子供たちに、何か元気の出るプレゼントはないものかと思案いたしました。自分が小学生のころ、当時は白バイとかパトカーはございませんでしたけれども、真っ赤な消防車はどこにもございました。あれに乗ってみたいなというふうに私は常々思っていたわけでございます。そういう意味から、パトカーと白バイを島に派遣して交通安全教室を開いたら、子供さんたちは大喜びするだろうなと考えました。
早速、鹿児島中央警察署に尋ねてみましたら、十島村にも三島村にも、パトカーと白バイを派遣しての交通安全教室は開いたことはございませんという返事でございました。どうも今、十島村、三島村に立派なカーフェリーが就航しているのを知らないような感触を受けました。昔のようにクレーンで車をつり上げて島に輸送はしてございません。立派なカーフェリーで港から港への搬送ができます。そういうことで島外の車両が島にどんどん入り込んでおります。道に不案内、しかし、島の子供たちあるいは高齢者の皆さんも、まさか車が走ってくるとは思わない、そういう交通事故の危険性が極めて高くなっておるようでございます。
そこで警察本部長、島の子供たちに夢を与え、高齢者や児童の皆さんに、時代に合った交通安全教育を実践すること、これが今警察本部が掲げています「あんしん創造プログラム」の策定に大きく関与するんではないでしょうか。ぜひとも三島村、十島村の全島で交通安全教室、パトカー・白バイつきを開催することを要請するものでございます。両村の教育委員会にもこの企画を話してございます。喜んで大歓迎するとのことでございました。明快な答弁を期待いたします。
四番目に、鹿児島みなと資料館の開設でございます。
鹿児島港の歴史を見てみますと、江戸時代・薩摩藩のころから埋め立て工事、築港の歴史がございます。東千石町に御着屋交番というのがございますけれども、あの御着屋のお名前は船着場の名残りと聞きました。昭和三十年代、四十年代にはボサド桟橋、あるいは名山桟橋という名前も残っておりましたけれども、今そのことを知る市民は少なくなってまいりました。この十二月十一日ですけれども、九州商船の「出島」が運航を停止いたします。種子屋久航路の一時代の終わりです。九州商船の事務所閉鎖で関係資料が散在するのではないか。大島航路、十島・三島航路も一緒に、北埠頭待合所の三階の空きフロアーに、鹿児島みなと資料館、仮称でございますけれども、つくったらどうだろうかということを考えたのであります。
資料館には、船や航路の資料と一緒に、易居町や名山町周辺の町の風景の資料、さらには鹿児島港の開発計画の資料、かつて鹿児島駅から走っていました貨物専用鉄道の臨港線の資料、薩摩藩時代の三五郎波止あるいは新波止、屋久島岸岐、弁天台場の資料など、多くの資料が展示できれば最高の施設になります。まだまだ貴重な数多くの歴史的資料が眠っているのではないかと思うのであります。
鹿児島みなと資料館─仮称─の開設事業は、北埠頭待合所の三階フロアーの活用ですから、建物の建設は不要でございます。大きな予算も必要といたしません。職員の皆さんの資料収集で立派な資料館が完成すると思います。土木部長、大変ユニークな文化事業となりますが、いかがでしょうか。文化あふれる答弁を期待してやみません。 |
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◯土木部長(加藤憲一君) |
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鹿児島港本港区の北埠頭旅客ターミナルは、離島航路の海の玄関口といたしまして、またウォーターフロント整備の一環として整備されたものでございます。三階部分は展望ホールとなっておりまして、船舶利用者はもとより、県民や観光客が桜島や錦江湾の景色を眺めながらくつろげる空間として、また離島などの観光情報の提供の場として利用されているところでございます。御提案のございました資料などの展示につきましては、鹿児島の港・海・船などにちなんだ歴史や文化を、内外に情報発信する上からも意義あるものと考えておりまして、県といたしましては、今後どのような資料があるのかなどを含めまして、関係団体等と協議検討してまいりたいと考えております。 |
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◯山口 修君 |
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港の資料館ですけれども、部長のお答えでは、非常に北埠頭の三階のフロアーが活用されているような御答弁でしたけれども、夏はクーラーがきいていますし、それなりの人がいますが、冬はそういうのはないし、少なくとも九五%は使ってないというふうに私は思っております。そういうことで、ぜひこの資料館の早期開設をお願い申し上げたいというふうに思います。
それから、質問の中で申し上げましたけれども、この十二月十一日の最終航海をもちまして、九州商船が種子屋久航路から撤退いたします。調べてみますと、大正二年、一九一三年に種子屋久航路に就航して、九十一年の長きにわたり熊毛郡民の生活と経済を支える生活航路として、大変なお力といいますか、協力をいただいた航路であります。できますれば、十二月十一日、最後の出港かあるいは入港のときに、伊藤知事名で感謝状を贈ってもいいんじゃないかなと私は思うのであります。
特に、乗船客の多かった昭和三十年代から昭和四十年につきましては、島を離れる中学生、高校生を乗せて、蛍の光と五色のテープの中を鹿児島に向かった光景は、まさに離島の経済力のなさ、悲しみのるつぼの風景でございました。
そういう中で、昭和四十五年に新造船のフェリーわかさ丸というのが就航いたしました。金子議員のふるさとには「加計呂麻慕情」という歌がございますけれども、このわかさ丸の就航のときに、観光事業も含めまして作曲されたのが、もう忘れられておりますけれども、「種子屋久慕情」という立派な歌があったんです。多分、和田出納長は熊毛支庁在庁のころ、このわかさ丸に乗って「種子屋久慕情」を聞きながら行ったり来たりされたのではないかなというふうに思っています。歌詞の一節は、議場にふさわしくあるかどうかわかりませんけれども、「弱い女のしあわせを、抱いてやさしく教えてくれた、忘れられないあの日の夢を見せているよに、ああ恋に咲くメヒルギの花」、物静かで大変よい曲でございます。西之表を出港して、しける佐多岬を回って、錦江湾に入りますと同時に、船内放送がありまして、「うどんの準備ができました」。わかさ丸のうどんがおいしくて忘れられない県庁職員はごまんといるんではないかなというふうに思っています。
いよいよ十一日の出航が最後になりました。高速船に押されて乗船客が非常に少ないこの十五年ぐらいでしたけれども、九州商船の皆さんに心から感謝申し上げたいというふうに思います。 |
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