 |
◯山口 修君 |
 |
 |
次に、中国帰国者等援護事業についてお伺いいたします。
昭和四十七年─一九七二年─の日中国交正常化後、中国残留邦人等の帰国が始まって三十二年になります。これまで永住帰国をされた中国残留邦人は六千二百四十五名、家族総数一万九千九百八十一名となっております。鹿児島県内の永住帰国者は、中国残留邦人八十四名、家族総数二百十一名となっているようであります。
昭和二十年の終戦当時、中国東北地方、旧満州というふうに呼ばれますけれども、満州には、開拓団を含めまして百五十五万人の日本人が居留していたとの記録がございます。これらの人々は、昭和二十年─一九四五年─八月九日、ソ連の対日参戦以降、居留地を追われ、大混乱の中を着のみ着のまま避難を始められたということでございます。途中で食料難に苦しみ、伝染病の発生など死亡者が続出するという悲惨な状況、まさに生き地獄であったと文献に書かれてございます。
また、戦争が終わって直ちに帰国が始まったのではなく、昭和二十年の冬は極寒のこの中国東北地方─満州─で暮らすことになり、生活基盤を失った日本人の多くは両親・兄弟との生き別れ、死別、そして孤児になって中国人に預けられたり、生きるために中国人の妻となられた方など、やむなく中国にとどまることになった皆さんが日中国交正常化後、永住帰国を始めたわけでございます。
中国残留日本人孤児の大半は、終戦当時は乳飲み子から四、五歳ぐらいの幼児であったというふうにあります。戦後三十年が過ぎてからの帰国は、養父母が高齢になってからということで、大分年がいってからの帰国、多くの皆さんは四十代半ばになってからの帰国であったと聞きます。したがいまして、帰国後日本語を覚えるのも難しく、日本語をなかなか話せない方も多くおられるというふうにお聞きしております。食生活あるいは文化も全く違うことから、帰国されてからの苦労の方が大変だという方もいるようでございます。
中国帰国者定着促進センターで生活実態調査を行っていますが、その主な項目を見ますと、生活保護の受給状況では、帰国孤児世帯で六五・五%、婦人世帯で六四・八%の方が生活保護の受給を受けておられます。鹿児島県では八十四名帰ってみえられましたけれども、生活保護者が六十名、自立できた方が二十四名というふうにお聞きいたしました。
帰国後の感想で、「よかった」と言われる方は、孤児の方で二五・九%、御婦人の方で四三・一%、「帰国して後悔している」という理由の中で、「言葉ができない」という方が、孤児の方で三三・九%、御婦人で二七・九%、「老後の生活が不安」と答えられたのが、孤児の方で三六・五%、御婦人で三七・二%という数字が出てきております。
ボランティア活動をされている方の報告では、日本語に不自由している人は、いろいろと話を聞いてあげると大変に喜び、すぐ涙ぐむというふうにお聞きしました。言葉がわからないために社会勉強が不足、さらにはテレビのニュースもわからない、情報が物すごく不足し、結果として引きこもりがちだというふうに聞きました。
また、日本語が十分話せないので、体調が悪くても病院に行けない人もおられるそうです。自分のどこが悪いか物が言えないわけでございます。子供さんは働いているために簡単に休みはとれず、結果として病院に連れていく人がなかなか見つからない。そして病院に行かないということで病が重くなるというふうなことでございます。加えて、若いころの中国での生活は肉体労働が中心の仕事の方が多いようでございます。生活も相当に厳しかったようですから、その無理がたたって、年々疾病率が高くなるというふうに言われております。
鹿児島県においては、中国残留邦人等の円滑な帰国促進と永住帰国された方々の自立支援を行うとして、国、地方公共団体と一体になり、日本語の指導、生活相談等、雇用機会の確保など多くの支援事業をこれまで行ってまいっております。帰国者の生活実態を見ますときに、定着後行われている各支援施策の期間の見直し等が必要ではないかと思うのであります。
自立指導員の派遣は定着後三年というふうになっております。自立支援通訳の派遣も定着後三年というふうになっております。巡回健康相談事業、さらに中国帰国者支援・交流センターによる日本語の遠隔学習等も行われてきたとあります。
そういう中で、自立指導員の派遣、自立支援通訳の派遣につきましては、定着後三年間とありますけれども、人それぞれ個人差があるわけですから、三年間に限定せずに、日本語の習熟度等を勘案しながら、支援期間を調整して指導できる体制が望まれているんではないかというふうに思います。
さらに、巡回健康相談等につきましては、相談員に中国語の堪能な方、例えば帰国者の中から日本語のお上手な方を選抜されて、高齢化が進んできました帰国者の健康チェック体制のさらなる充実も必要だと判断いたします。
さらに、一番喜ばれているのが、その地域のグループ学習会のようでございます。ある面では言葉のハンディなく中国語も自由に使えるということもあるのでしょうけれども、非常に喜ばれております。この回数をふやすことも求められております。以上のような意見を帰国者の中から聞いたところでございます。
このようなことから、中国残留邦人の帰国が始まって三十年が経過した今、県は、関係自治体と協力しまして、帰国された中国残留日本人孤児、そして御婦人の皆様方の詳細な生活実態調査をされるときではないかというふうに考えます。中国帰国者等援護事業を、当初の目的に沿って、より効果的な事業として帰国者の皆さんを確実に支援していく実のある事業とするためにも、ぜひ現状を把握して改善していくことが大事だというふうに考えます。県としまして、これからの中国帰国者等援護事業の取り組み方針を明らかにしてください。 |
 |
 |
◯保健福祉部長(千村 浩君) |
 |
 |
県の中国帰国者等に対する援護業務につきましては、国の法定受託事務といたしまして、身元引受人のあっせんや日本語教育、生活・就労指導のほか、必要に応じ、自立支援通訳の派遣などを行っております。
また、県単独事業といたしまして、帰国後三年の援護期間を経過した中国帰国者等や呼び寄せ家族を対象に、日本語教室、就労促進のためのグループ学習会・企業見学会を実施しております。昨年四月からは、社会福祉課内に鹿児島県中国帰国者等相談窓口を開設いたしまして、中国語を話せる自立援護相談員による生活相談指導や就労支援業務を行うなど、中国帰国者等の早期自立を支援しております。
県といたしましては、今後とも、国と連携し、より効果的な中国帰国者等援護事業を推進してまいりたいと考えております。 |
 |
 |
◯山口 修君 |
 |
 |
中国帰国者等の援護活動事業ですけれども、戦争を知らない世代が大半を占めてまいりました。きょうお願いしました中国帰国者の皆さんの真の御苦労を知る人は本当に少なくなってきておりますし、この議場にも数えるぐらいしかいらっしゃらないのではないかと思います。
私は機会があって、麻山事件という、哈達河開拓団の皆さんがソビエトの参戦によって避難するときに、ソ連の戦車群に囲まれて、四百人が自警団によって射殺されて自決したという本を見ましたけれども、このような修羅場をくぐって帰ってきた帰国者の皆さんです。そしてまた残った方は、大変な御苦労をして三十代、四十代、五十代前に帰ってきて、言葉がわからない。当然だと思います。自分自身が例えば四十代でアメリカでも、中国でも、ベトナムでも行ったときに、一生ここで住みますよといったときに、果たしてどの程度向こうの言葉が覚えられるのかなというふうに思います。そういう意味合いからも、何とかこの援護活動事業がより充実していくようにお願い申し上げます。
赤い羽根募金の事務局にお尋ねいたしました。毎年帰国者本人に二万円、そして同伴者に一万円の激励金をお渡ししている、見舞い金を贈っておるという話を聞きました。こういうところにも赤い羽根募金が生かされているということを聞きまして、安心したところでございます。
そういう意味から、中国帰国者等援護事業、ややもしますと北朝鮮の拉致事件の帰国者の方にスポットが当たって、その落差が私は大きいのではないかなというふうに思います。そういう意味合いで、次年度以降といいますか、この事業をますます充実することをお願い申し上げまして、私の一般質問を終わります。
どうもありがとうございました。 |
 |
|